毒親だと再認識した日

高校卒業まで、最低限しか、母と関わらなかったおかげで何とか、精神的にも落ち着いていた。


しかし私が社会人、姉は大学4年の頃だっただろうか。

社会人といっても介護施設で常勤として働いていた時。


朝から、生理痛以上の痛みが襲ってきた。
しかし、その日は早出。7時出勤なので何とか出勤するも痛みで動けない。

夜勤さんのご厚意で帰宅させて貰い、病院に行きたいが、歩けない。

たまたま、家には母が居て『車出して』って言ってみるが、『勝手に行けば。』で終了。
むしろ、転げ回る私をみて笑い、彼氏に電話するっていう、親じゃない行動をしてた。



まあ、原因が尿路結石だったのでよかったけど。。

高校での逃げ道

高校を選ぶ際も母から『そんな学校行くな。世間体が悪い』言われましたが、押しきり無事合格。

高校では、明るくみんなに接し、友達とも遊んだり部活のバスケに打ち込み、部活がない日はバイトをして学費や貯金にまわしてました。

私や姉はいかに母と合わないか。を目標にして生活してたと思います。

私にとって母親なんて要らない。
しかし、父や下の兄弟がまた、母が恋しいと思う時期。
だからこそ何も言わなかった。

私はいろんな社会人バスケに行っては帰る時間を遅くした。
帰宅が11時近くの日もあったけど、バスケをすることでなにも考えずに済んでいたのかもしれない。

父の思いと生活

父は離婚したもののやっぱり母が好きなのか、母を家に毎日にあげてました。

母も初めはよかったものの、逆らう人間が居ないと分かると、
父からタバコ代、お酒代、ある時は作った晩御飯を彼氏と自分の分まで持って帰る日々でした。

中学生になってからは、父の弁当、下二人の朝ごはん等を作ってました。
部活がない日や早い日は夜も作りましたが、
夕方から来る母に『量が少ない、味薄い、』などいわれ、最後には味付けを変えられストレスで暴飲暴食を始めてしまった(;´Д`)

毎回されたらストレスたまるしね。

父親の決断❓

飲み屋通いの生活と外泊も多くなってきた頃、父親が決断を下しました。

それが離婚。


私たちからすれば、母のところへ行くか、施設への選択しかないと思ってましたが、
父との生活取った私たちに父親は無口ではあるものの、嫌がりもせずみてくれた事は感謝でしかないです。

母『私は一番下以外、引き取ります』と言っていたが、姉、私、弟は父の方がいいと言ってからは、少しの間は静かでした。


ほんの数日。

母、飲み屋通い。

妹も一般食になり始めた頃から、母親の居酒屋通いが月3からほぼ毎日になりはじめました。

その付き添いに未成年の姉を引き連れて行ってました。
私は残りの兄弟を寝かしつけ今か今かとか、帰ってくるのを待ってました。

父親は母親を連れ戻す毎日に。

母が帰ってこない日もしばしばありましたが、父親が居たのでなんの問題なく生活はしてました。

残飯処理係

母がごはんを作る日は大家族以上の量を作る。
なおかつ、母は食べない。父親は普通。姉、弟は小食。
結果、余ったごはんは私のお皿に全部入れられる。

母親『お前残すなよ。』
この頃の私は母が絶対という思いもあり、泣く泣く完食してました。

その頃から中学卒業するまでそんな感じでした。

妹誕生

私が4年生になったときに妹が誕生。
誕生してからは、母のイジメもなく平和でした。


初の娘誕生に現父も喜んでいましたが、妹と弟の差別が見えるようになってきました。
それは妹が保育園に行くようになってから。

妹にはお菓子を買うが弟は買わない。
妹は迎えに行くが弟は行かない
妹の発表会は行くが弟のは行かない。

明らかな差別だったので母に抗議もしましたが、全く聞く耳を持ってくれませんでした。